お肉の貯蔵庫

映画やアニメ、旅行について書いていきます。Twitter@bao_penguin

旅も自転車もド素人なのに四国一周した話(1)

 

あっブログさえド素人じゃん、記事の方向性から決めなきゃ! 

 今までの旅やロードバイクに興味を持ったことなどなかった。

 それどころか、アウトドア全般から縁遠い生き方をしてきた。

 

 どうしようもなくオタク気質で、ゲームみたいに最初に数千円出せば一生遊べる趣味が最も経済的で合理的、高尚ですらあると思っていたし、なにより自分だけの世界に没頭する時間が大事で、そのために自分の部屋に閉じこもることは必要不可欠だった。

 

 ところが、今回、アウトドアと対極な生き方をしてきた僕がロードバイクを買って、四国一周に挑戦した。

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 人生なにが起こるかわからない、……なんて大袈裟な語彙を飾り立てるつもりは露ほどもない。

 でも、少なくても数年前の自分に四国一周したことを伝えたら、「えぇ!? 数年後の俺が???」くらいの模範的な驚き方はしてくれると思う。

 

 それくらい、あの僕が旅に出たというのは意外なことで滑稽なことのように思える。 

 

 再三になるが、旅の経験なんて持ち合わせてなかった。

 「旅」について持ち合わせていたのはRPGでよくある、町を転々としてレベルアップしていくイメージ、ただそれだけ。

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 そんなのだったから、「旅をする意味や意義」なんてわかるわけがなかった。

 歯に衣着せず言うと……、スマホを使えば誰でも簡単に無料かつ数秒でどこへでもアクセス出来てしまう時代に、わざわざ肉体や時間、お金を使って各地を巡るのは文明を遡行する行為だとすら考えていた。

 

 今はもちろん、当時も旅を趣味にしている人をバカにするつもりは微塵もなかった。むしろ、無趣味人間の僕からしたら、そういう人たちは太陽よりも眩しく見えた。

 たとえば、「日本一周しました!」と言われたら、素直に「ほえぇ、スゴイ」と思う。

 ただ、なんでスゴイと思うのかは意外と上手く説明できないものだ。

 

 日本一周でそうなんだから、もし仮に数年前の自分に「自転車で四国一周したよ」と伝えることができたとしても、返ってくる反応は良くも悪くも「驚き」の範疇を超えないはずだ。

 

 というわけで、旅や自転車に興味がない人にとって、四国一周が大したことではないことは自分でよく理解している。

 だから、ただ四国を一周したことを書いたんじゃ大した記事にならないし、共感や理解を得るのはもっと難しいことだろうと思っている。

 

 ただ、僕が四国で出会ってきた人々、土地、文化はいくら語彙を飾っても表現仕切れないと思えるほどに素晴らしいものばかりだった。

 今、「旅をする意味や意義」を聞かれれば、そういう「表現できない素晴らしさに出会うため」と即答するほどに。

 

 あえて繰り返す、四国一周は大したことではない。

 だから、僕はこの経験をもって誰かを啓蒙しようとか、大それたことは考えていない。

 そういうのは日本一周、はたまた世界一周した人のほうが説得力があるし、そういう人たちに任せたいと思う。

 

 ただ、そんな僕にも「四国の素晴らしさ」については書けることがあるはずだ。

 たしかに、僕の語彙や表現力で体験してきた素晴らしさを伝えきれるかどうかはわからない。ともすれば、「百聞は一見に如かず、だよ!」なんて本末転倒な結論になるかもしれない。

 

 それでも、可能な限りは子細に伝えていきたいと思っている。

 

 もちろん、四国の素晴らしさを通じて読んだ人の共感や理解を得られたら、書き手として素直に嬉しい。

 でも、それ以上に、この旅行記を読んだ人が以前の僕のように自転車旅行に興味がなくても、四国の良さを知ってもらえるような、そんな記事を第一に心掛けて書いていこうと思う。

 

 

2018/12/17 【大阪~神戸編PART1】慣れない自転車に苦戦した話

  僕は大阪在住だ。

 いくら「四国一周するんだ!」と意気込んでも、出発点が大阪であることに変わりはない。まず四国に上陸することから始めなくてはならない。

 その「旅行のための旅行」という感覚が少し面倒に感じられたが、仕方ないと飲み込んだ。

 というか、四国在住なら、わざわざ旅に出ようとは思わなかっただろうから。

 

 僕は小さい頃、よく祖父母に連れられ日本各地の観光スポットを旅行していた。

 本当に小さいときのことで、今となっては具体的に各地で何を見て何を体験したかとか、そういった当時の記憶はほとんど残っていない。

 ただ、祖父母に会うと、今でも「あんたと~~行ったときは……」なんて会話を振ってくるものだから、どこに行ったことがあるかは何となく把握している。

 

 あるときのことだ。振り返ると、その微かな思い出の中に四国四県はなかった。

 今まで一度も行ったことがない。

 それが四国を旅した動機だった。

 (そもそも、どうして旅をしようと思ったのか、何故ロードバイクが手段だったのかについては追々触れようと思う。)

 

 それでも、フェリーを利用すれば四国に行けることは常識的に想像できる。

 鳴門大橋や瀬戸大橋は現状、自動車専用道のため自転車は通行不可。

 しまなみ海道ならば自転車で四国へ渡れるらしいが、そのために大阪から広島まで経由する気にはなれなかった。

 

 というわけで、僕の旅はまず大阪からフェリー乗り場がある神戸へ向かうところから始まった。

 

  初日の朝――近所の人の往来が落ち着き始めた頃――、僕は数十キロはある荷物を自転車の荷台に積む作業を始めた。

 ロードバイク自体買ったばかりなのだ、当然上手く積み込めるはずがなく。

 積み込めたと思っても、今度は新品のゴムロープの伸びが悪く固定ができない。

 

 試行錯誤しながら悪戦苦闘すること20分弱。

 冬の寒さの中、焦りや不安などいろいろ混ざった汗が額に浮かんでいたが、なんとか形になった。

(荷物の概要についても追々触れていこうと思う。) 

 

 何度も言っているように、僕はロードバイク初心者だ。

 この自転車を購入してから2~3キロはテストライドしていたが、これだけの荷物を載せて走るのは初めてだった。

 

 息を整え、硬い股関節を限界まで開いて自転車に跨ろうとしたとき、荷物に足がつっかえた。

 この上なく恥ずかしかった。そして、出発に浮足立ってそこまで考えられていなかったことが情けなかった。

 積み荷の位置を調整するのは嫌だったし調整しようもなかったので、仕方なくフレームを跨いでからお尻だけサドルのほうへスライドさせるという珍妙な乗り方を編み出した。

 

 そうして、僕はやっとの思いでペダルを漕ぎ出した。

 荷物のせいでペダルがかなり重かった。でも、ここまでは予想していたことだ。

 予想外だったのはハンドルのぐらつきが大きいこと。

 

 ロードバイクはいわゆるママチャリとはハンドルの形状や乗車姿勢が大きく異なる。

 そのため、テストライドをしてロードバイクの癖は掴んでいたつもりだった。

 

 しかし、ロードバイクの車体はかなり軽いという大事なことはすっかり意識の外においやってしまっていた。

 当たり前のことだが、そんな車体の後ろに数十キロもの荷物を積んでいると、重心は限りなく自分の後ろにもっていかれてしまう。それは非常に不安定な状態だ。

 

 もちろん、それでも重心を崩さなければどうってことはない。

 でも、現実には重心がブレブレだった。

 改めて考えると、ロードバイクの癖は掴んでいたつもりだったが、別にママチャリの癖が抜けたわけではなかったのだ。

 力を込めて漕ぐとき体の重心を左右に振ってしまうのはママチャリあるあるだと思うが、それをロードバイクでもやってしまっていた。

 

 ①荷物を積んだ車体を前に進めるためにペダルを力強く漕ぐ。

 ②体が左右にブレる。

 ③車体の重心ごとブレる。

 ④修正するために逆に体を振る。

 ⑤車体の重心も合わせてついてきて、またブレる。

 

 どうやら人間というのは視界の外にあるものへ注意を払うことが苦手らしく、しばらくはこれの繰り返しだった。

 

 まるで悩める若者の人生のようにフラフラフラと車体を揺らし、ときには向かい風を受け、商店街の賑わいを横目に進み、信号待ちでは珍妙な乗り降りを奇異の眼差しで見られ、坂道を上っては下り、されど牛歩ながら確実にペダルを漕いでいた。

 

 10数キロ進んだ辺りで、全く知らない街に突入した。

 正直それまでは「もし知り合いに見つかったらどうしよう」「大量の荷物抱えて慣れない自転車に乗ってるところを見られたら恥ずかしい」なんて、考えても仕方ないことを考えては人の目が怖くて気が気じゃなかった。

 

 でも、この辺りから「ここまで来ると、さすがに知り合いに見られる心配はないか」と安心し始めた。

 旅の恥はかき捨て、とはよく言ったものだ。

 少し開放的な気分になってきて、旅に出た実感が遅れて湧いてきた。

 

 同時に若干の疲れも感じ始めていた。

 今となっては10キロちょっと走ったところで疲れないが、このときは一気に10キロ走ることさえ初めての経験だった。

 たぶん気疲れみたいなものもあったと思う。

 

 とある高級住宅街の坂の上におあつらえ向きに用意されたベンチがあった。

 時刻は11時頃だったと思う。

 ちょうどいいから、そこで昼休憩を取ることにした。

 家から持ってきた、シュガーマーガリンがべっとりと塗られたパンを頬張って考える。

 

 出発時、神戸までは約50キロだった。

 10キロと少し走ったはずだが、マップアプリを開くと目的地まで40キロ以上は優に残っていた。

 思えば、フラフラした走りで国道のような車の多いところを走るのは周りのドライバーに申し訳ないと避けてきた。

 転倒するほど揺れていたわけではないが、自動車の運転手はフラフラしているというだけで追い越していくとき怖さを感じるだろう。

 

 だから、マップアプリでオススメされたルートを敢えて無視し、車通りの少ない道を走ってきた。

 そうしたことで確かに事故を起こしたり起こされたりする心配は皆無だった。

 しかし、車通りが少ないということは逆に人通りが多いということでもある。

 ただでさえ迂回ルートを走っているのに、スピードも出すわけにはいかないという条件が重なって、マップ上では10キロも進んでいないという状況を生んでいた。

 

 でも、焦ってはいなかった。

 どちらにせよ、フェリーの出航本数が少ない関係から神戸で一泊することは決まっていたし、ネットカフェなら例え深夜になっても入店できるからだ。

 

 それどころか、雲の切れ間から顔を出した太陽の熱があまりに気持ちよくてリラックスモードに入ってしまった。

 スマホに入っているのに、今までしっかり聴いたことがなかった曲を試しに流してみる。シングルCDのカップリングだったその曲はとてもいい曲だった。

 

 ついうっかり2回目3回目とリピート再生していると、坂の下から老夫婦がやってきた。

 その夫婦は急こう配の坂を歩いてきたはずだが、疲れを顔に滲ませることはなく、話に華を咲かせ笑みを浮かべていた。

 二人はベンチの横に設営された健康器具で身体を伸ばしては、また緩やかな歩みで僕の隣を過ぎていった。

 それを見て、僕も休憩を終わりにした。

 

 ゆっくりでも遠回りでもいい、ときには休憩してもいい。

 兎にも角にも楽しいと思える旅にしようと心に決めた。

 

 それから、2~30キロほど走ったあたりで猪名川に着いた。

 川沿いに歩道兼自転車専用の道が整備されているのが特徴だ。

 その頃には、さすがにロードバイクのコツもマスターしていて、フラフラと車体が揺れることはなくなっていた。

 中年のカメラマンが数人集まって撮影会をしていたが、実に閑散としていて走りやすかったのを覚えている。

 

 その日は神戸市に入って、適当に見つけたネットカフェで夜を明かすことにした。

 ちなみに、ネットカフェに入店するのもこの日が初めてだった。

 

 ラーメン店が併設されている店舗で、受付が黒いエプロンを掛けたラーメン店のお姉さんだった。

 ネットカフェ初心者でも、普通のネットカフェと違うことはなんとなくわかった。

 だからなのか利用者は僕以外にほとんどいなかった。

 ドリンクを取りに行くとき女性客とすれ違ったが、個室は間隔を空けた場所に割り振られていたので貸し切り状態に近い感覚だった。

 

 それはそれで快適だったのだが、ラーメン店がすぐ隣にある影響か、空気が悪く次第に頭が痛くなってきた。

 店内に流れるジャズとオシャレという名目で節約されたフロアの薄暗い明かりがどんよりした空気を加速させている気がした。

 

 深夜2時、全く寝付けなかった。

 僕が歌手ならうっかり踏切に望遠鏡を担いで天体観測に行っちゃうレベル。

 

  ……ごほん、たぶん頭痛以外にも緊張とか不安とかいろいろあったのだと思う。

 

 とはいえ、ただ起きていると、不必要にいろいろなことを考えてしまう。

 これから先の旅のことだけじゃない。将来のこととか親のこととか、もう本当に。とにかく若さから来るいろいろだ。

 

 気を紛らわすためにPCを点けてみると、『SSSS.GRIDMAN』(グリッドマン)の無料配信をやっていた。

 大して興味がなかった作品だが、それ以外に配信されていた作品は既に観ていたものばかりだったので、なんとなく1話を再生してみた。

 知らなかったのだが、円谷プロが制作に関わっているとのことで随所にウルトラマンのオマージュが見られて、小さい頃ウルトラマンに首ったけだった僕としては懐かしい時間を過ごすごとができた。

gridman.net

 

 

2018/12/18 【大阪~神戸編PART2】うどん県上陸と中国人に囲まれながら夜を過ごした話

 結局グリッドマンにハマって、最新話まで観ていると朝になっていた。

 気付いた頃には頭痛は収まっていた。

 

 退室時間には少しだけ余裕があったので、いくばくの睡眠を取ることにした。自分で睡眠時間を無駄にしたのに、すがるように熟睡していたように思う。

 それでも、不思議と退室時間30分前にはちゃんと目を覚ました。

 

 寝返りをうつだけで至るところに体をぶつける、そんな狭く暗い個室の中で精一杯の伸びをしてから、机の上に残していたジュースを手に取った。

 水面には埃がいくつか浮いていて、空気が悪いと感じていたのは思い過ごしではなかったようだと過ぎたことの答えを得てから、僕は店を出た。

 

 朝の刺さるような冷たい風はやや寝不足の体には良いように作用して、昨夜とは打って変わって頭はすっきりしていた。

 すぐ近くにあったコンビニでボトルに補充するための水と朝食のおにぎりを買ってからは特に寄り道するでもなく、国道をひた走ってフェリー乗り場へと向かった。

 

 次に漕ぐ足を止めたのは、みなとのもり公園。

 正式には「神戸震災復興記念公園」という。

 フェリー乗り場のすぐ近くにある公園だ。

 

 以下、公園の詳細について公式サイトより抜粋。

みなとのもり公園(神戸震災復興記念公園)は、震災の経験と教訓を後世の人々に継承するため、神戸のまちが復興から発展へと前進する姿を木々の生長とともに見つめていく公園を基本理念に、復興の記念事業および防災公園として整備され震災から15年目の2010(平成22)年1月17日に開園しました。

みなとのもり公園の特徴は、計画段階から完成後の運営に至るまでの市民の参画です。市民参画は、整備検討段階の2002(平成14)年度の市民ワークショップから始まり、以後、「懇話会」「検討会」と公園づくりの段階に応じて市民の参画は続きました。
とくに、ニュースポーツ広場の計画では、実際にスポーツを楽しんでいる若者の参画を得て、細部にわたる内容にまで意見交換をしながら設計を進めてきました。

一方、もりづくりにあたっては、多くの市民が自宅で育てたドングリの苗木を持ち寄って植樹し、芝生づくりでは数百人の市民が工事中の公園に集まり、苗づくりや植え付けを行いました。

2010(平成22)年4月の開園からは、「みなとのもり公園運営会議」が結成され、公園を活性化していくための活動が行政と協働して進められています。
運営会議は、公園のコンセプトである「つくり続ける」ことを念頭に、日常の管理やイベントなどを楽しみながら活動しており、神戸市の「美緑花ボランティア」として位置づけられ、震災復興から生まれた元気を未来へ伝えるために、この公園をつくり続けています。

www.eld.jp

 

 JR貨物神戸港駅跡地を利用した都市公園というだけあって、非常に広々としていた。

 また、先ほどの引用文にもあるように緑豊かで、かつランニングやバスケなどスポーツを楽しむ人たちで賑わっている様子が印象的だった。

 

  写真には映っていないが、朝にもかかわらず沢山の人がいた。

 それくらい広々しているので、僕のように人の集まる場所が苦手なインドア派も安心してくつろげる。

 

 各所には、市民参画が積極的に行われている様子が確かに見て取れた。

 関西で育った者として、こうした活動があることに感謝しつつ、旅中ずっと、このことを「ブログで伝えなきゃ」と思っていたので今回無事に書けて胸を撫でおろしている。

 

 閑話休題

 その後、フェリーの時刻まではこの公園で時間を潰した。

 フェリーさえ初体験の僕。若干の期待と緊張を胸に乗り場へと向かったが、実際は無機質な時間を過ごすことになる。

 

 乗船時刻になると、まず車両の積み込みが始まる。僕は自転車だったので、車よりも先に乗船して一般車の邪魔にならない位置に車体を固定する必要があった。

 なので、急かされる急かされる。

 その日は車両の多い日だったらしく、「早く」と二度ほどせっつかれた。

 

 もちろん、これは仕方のないことだ。陸と水面に浮かぶ足場、その違いを初体験として噛み締めたかった感は否めないが、あくまで乗せてもらう立場ということを忘れてはいけない。

 

 自転車の固定が終わり、車両甲板から上層にある客室へ続く細い階段を上がると、映画でよく見るような、ホテルにも似た内装の室内が広がっていた。

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 船内は撮影禁止だったので画像はイメージだが、系統としては概ねこういう感じだ。

 年季が入っている船だったので、もちろん内装にも時代を感じるところはあったが、造船当時は画像に引けを取らないほど煌びやかだったのだと思う。

 

 客室にもいくつかフロアがわかれていて、一階はエントランス、二階は椅子席、三階は畳席となっていた。

 自由席だったので、僕は人が少なかった椅子席に足を運んだ。

 高速バスのような座席がずらりと50席ほど並べられている中、窓際の一角に腰掛けた。

 

 しばらくすると、出航時間になった。

 感動すると思っていたその瞬間は意外に呆気ないもので、感想としては「意外と地味だな」というものだった。

 というのも、フェリーくらいの大きさになると波の揺れなんて感じるわけがないし、潮風を受け続けてきた影響からか、窓はくすんでいて外の様子なんてハッキリと窺えなかったからだ。

 

 神戸から高松まで約5時間の船旅。

 昨夜よく眠れなかったことも相まって、気付けば寝ていたようだった。

 

 昼過ぎに出航して、着いた頃にはすっかり夜。

 でも、予約していたゲストハウスのチェックイン時刻にはまだ余裕があった。

 

 そのため、イオンのネオンを見つけると吸い込まれるように向かっていた。

 フードコートでうどん県での初うどんを食しながら、ついに四国へ上陸したことについて考える。

 

 バタバタしていたせいか、寝不足のせいか、外は暗くて何も見えないせいか、イオンなんて大阪にもある店に来たせいか、まだ実感らしい実感は湧いていなかった。

 ただ、財布の中の切り取り線で切られたフェリーの乗船券を見て、ようやく四国一周が始まったのだということは咀嚼した。

 

 食後はフードコート脇に暖簾を掲げる駄菓子屋さんを物色。

 小学生のときは行事ごとがある度、近所のおばあちゃんが営む駄菓子屋さんに足を運んでいたが、いつしか店じまいをしていた。

 懐かしいお菓子を見てノスタルジーに浸っていると、良い時間になってきたのでゲストハウスに向かうことにした。もちろん、片手には昔大好きだったモロッコヨーグルとさくらんぼ餅。

 

 ゲストハウス周辺までやってきて、入口がどこにあるかわからず迷っていると、近所のおじさんが声をかけてくれた。

「兄ちゃん、宿泊する人?」

 てっきり、この方がオーナーだと勘違いした僕は、

「はい、予約してました〇〇です」

「は? ゲストハウスに用あるんやろ?」

「え、あ、そうです」

「入口まで案内したるわ」

 ここまで会話を交わして、ようやくこのおじさんは僕が困っていたから世話を焼いてくれたのだと理解した。

 

 今までこういう経験をしたことはあまりなかった。

 子どものときはケガをしたり夕方一人で歩いていたりすると心配してくれる大人がいたが、今ではそういうことはなくなって、それを「大人になる」ということだと思っていた。

 だから、勘違いしたのだと思う。

 

 そのおじさんは僕がお礼を言う前に去って行った。

 見返りを求めて親切にしたわけじゃないということだろう。

 でも、だからこそ、聞こえるようにハッキリと「ありがとうございました」と頭を下げた。

 

 おじさんに案内してもらったゲストハウスは路地を少し入ったところにあった。

traditional-apt.com

 

 オーナーは気さくな人で、どこから来たのかなど軽い世間話をいくつか交わした。

 ロードバイクで来たことを伝えると、盗難に遭わないよう敷地内に置かせてくれ、更に「寒かったでしょ」とアツアツのお茶まで出してくれた。

 逆にヤケドするんじゃないかってくらい熱かったのはここだけの話。

 

 施設の説明を受けると、宿泊する部屋へ。

 

 ドミトリーという相部屋タイプの部屋なのだが、僕以外の利用者は何故か全員中国人でかなり気まずかったのを覚えている。

 うち一人が「ハロー、ハハ……」と気まずいなりに挨拶してくれたのだが、僕も「ハロー、へへ……」以上の言葉を返せず、余計に地獄みたいな空気になった。

 

 ゲストハウスというのは旅行者がよく利用する宿泊施設でもある。

 だから、もしも旅の先輩と相部屋になったら話を聞きたいと思っていたのだが、全員中国人だったのはさすがに予想外だった。

 

 唯一の救いは消灯時間が23時と早めだったこと。

 そそくさと割り振られた二段ベッドの上に上がりこみ、狸寝入りを決め込んだ。

 しかし、フェリーで十分に寝たせいか、すぐには眠りにつくことができなかった。

 

 ようやく眠くなってきたのは何時頃だっただろうか。

 深夜2時頃だっただろうか。

 

 ところが、もう少しで寝れるというくらいウトウトし始めたとき、僕の目は覚めた。

 真下から風邪っぽい咳が聞こえてきたのだ。

 どうやら僕とスイッチするかのように二段ベッドの下の利用客が起きたらしい。

 そして、その咳は夜通し続いた。

 

 当然寝れるわけもなく、この日もまた僕は朝まで起きていた。

 

(続く)